2009年06月26日

反米武装勢力の攻撃

連合軍はイラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、アメリカが旧体制を転覆して一方的に終結を宣言したに過ぎない。前述したように、イラク軍やイラク政府が地下に潜ってしまった為である。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かった。

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イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じる(米軍は当初8000名と発表)など戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えた。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなった。しかし、サッダーム一族や政府関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになった。8月には国連事務所を爆破してセルジオ・デメロ国連事務総長特別代表らを殺害(爆発の瞬間が、たまたま取材に入っていたNHKのクルーに撮影された)、国連チームの撤収に至った。

この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、元大統領サッダーム・フセインや、彼の2人の息子に指示されていると思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって2人の息子(ウダイ、クサイ)は共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えた。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生した。

2009年06月10日

メタノール (methanol) は有機溶媒などとして

メタノール (methanol) は有機溶媒などとして用いられるアルコールの一種である。別名として、メチルアルコール (methyl alcohol)、木精 (wood spirit)、カルビノール (carbinol) メチールとも呼ばれる。示性式は CH3OH で、一連のアルコールの中で最も単純な分子構造を持つ。ホルマリンの原料、アルコールランプなどの燃料として広く使われる。燃料電池の水素の供給源としても注目されている。

化学用途 フェノール樹脂や接着剤、酢酸およびホルマリンの合成原料
燃料用途 石油代替自動車燃料としてはエタノールより安価でCNGと並ぶ価格競争力がある(詳細:アルコール燃料)。また、ノートパソコンなどのモバイル機器を長時間稼動させるため、直接メタノール燃料電池(DMFC)が期待されている。
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

日本においてメタノールは危険物第四類アルコール類に指定されているなど、引火の危険性の高い液体である。揮発性が高く、メタノールの入った容器を直接火にかけると爆発する恐れがあるため、保管場所・使用場所における火気や電気火花について念入りに注意しなければならない。特に使用する場所では十分な換気と、容器を倒さないこと、液をこぼさないことに留意されたい。換気は防火上有効であるとともに、後述する中毒の防止にも有効である。

引火して炎上した際は、泡や粉末タイプの消火器、二酸化炭素、砂を用いる。水を噴霧した場合、炎が広がる可能性があるため避けるべきである。

メタノールの炎は薄青色であるが、非常に透明感があり視認しにくい。キャンプ用品として販売されている着火剤はゲル状物質にメタノールが含まれており、マヨネーズを絞る要領で簡単に扱うことができるようになっている。その取り扱いの簡便さが裏目に出て過剰使用され、着火と同時にメタノールの透明な炎が大きく生じて衣類に引火するという事故が起きている。また、適正量の使用であっても、着火を確認するためにのぞき込んだため、透明な炎を浴びてしまうという事故も発生している。

2009年06月07日

鉢には兜の緒、忍緒(しのびのお)と呼ばれる紐を

鉢には兜の緒、忍緒(しのびのお)と呼ばれる紐をとりつけ、頭部を固定するために顎で結ぶ。 初期には鉢に緒をつけるために響穴と呼ばれる穴を開けて綰をつけていたと推測されるが、後には腰巻につけるように変化し、綰にかわって環をつける方式が現れた。

しころ(漢字:????、錏とも書く)

小札錣
中世に使用された物で、鉢の下辺(腰巻き)に小札錣を威した物を一段から複数段に渡って付け、垂下げた。 その両端を眉庇のついたあたりから折り返すのが特徴的で吹返と呼ばれる。 吹返はその構造上しころの裏側にあたるため、絵韋をはる。

板札錣、板錣
板札を威してつなげた板札錣と鋲留めした板錣がある。 中世には小札錣に圧されて姿を消していたが、戦国時代から復古し隆盛する。
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通常の庇同様、雨や陽光を遮るのみならず、額を守る等の用途も持って兜鉢の正面に設けた。 その多くは付眉庇(つけまびさし)と呼ばれる形式で、鉢に板金を鋲留めしたものであった。 中世の眉庇は兜からそのまま額から眉を覆うように作られていたが、後には鉢から斜め下方向に突き出た出眉庇、垂直に突き出た直眉庇と呼ばれる形状が現れた。

特に中世以降、武士の時代には己の武を誇り、存在を誇示するために鉢や眉庇に装飾物を取り付けるようになる。 立物は付ける場所によって前面に付ける前立(まえだて)、側面に付ける脇立、頂点につける頭立、後部につける後立に分けられる。

中世には鍬形と呼ばれる前立がよく用いられた。 初期は一体形成のものもみられるが、鍬形台と呼ばれる台の両端に獣の角等を想わせる一対の装飾を取り付けるのが一般的である。 三鍬形と呼ばれるものは、さらに中央部に祓立をつけ、ここにも装飾を取り付けることができるようにしている。

戦国時代に流行した兜の付属物で、鉢や錣にヤクや牛等の毛を植え付けた物。

2009年04月23日

モリソン号事件

モリソン号事件(もりそんごうじけん、英: Morrison Incident)とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。

鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号(Morrison)」に対し薩摩藩及び浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行った。

しかし、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流漁民の音吉ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していた事が1年後に分かり、異国船打払令に対する批判が強まった。
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またモリソン号は非武装であり、当時はイギリス軍艦と勘違いされていた。のちに、『慎機論』を著した蘭学者渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英の尚歯会2人らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こる。

2009年04月22日

アステカ

アステカとは1325年から1521年まで中米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の王国。自らをメシカと称した。言語はナワトル語。

伝説によればアステカ族はアストランの地を出発してメキシコ中央高原をさまよい、1325年ウィツィロポチトリ神に啓示された、蛇をむさぼる鷲が石の上に生えたサボテンにとどまる地、テスココ湖畔に都市(テノチティトラン)を築いて定住した。

当初アステカは強力なアスカポツァルコ王国に朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王に即位した。第4代イツコアトル国王のとき、アステカは王位継承問題に介入してアスカポツァルコ王国に勝利すると、テスココ・トラコパンと同盟して力を蓄え次々と周辺都市国家を征服していった。最盛期のアステカはメキシコ湾から太平洋沿岸にまでを領有し500万人以上の人民を支配した。首都テノチティトランの人口は数十万人に達し、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した。

社会構造
階級社会
アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、最高位の神官である国王を神官や貴族さらに軍人がこれを補佐した。支配者階級の下位に農民や職人さらに商人があって最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされた。

軍国主義
軍国主義国家であるアステカは戦士を大切にした。戦争功労者にはジャガーの戦士や鷲の戦士の称号や土地・屋敷を与えあるいは年金を給付してその功に報いた。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人はスパイとして重宝され、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。

道路網整備と経済の発達
アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備し、一定区間に駅所を設けて管理したのでその周辺の治安が維持され、婦女子でさえ単独で国内を旅行することが可能であった。新来のスペイン人はこの整備された道路網と治安の良さに感心したという。

この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500?700粒で奴隷1人と購入できた。

食料
高い生産性を誇るチナンパ農業から得られるとうもろこしや芋類・豆類などの農産物、リュウゼツランから醸造されるプルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。

文化
アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。同時期に隆盛を極めたインカ帝国とは間接交流があったのではないかと推定されているが、直接交流の実態は解明されていない。

ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

人身御供
アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供の神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった。

一般的に生贄になった者は祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達がその四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸を切り裂き心臓を摘出した。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、神官が生贄から剥ぎ取った生皮を着て踊り狂ったり、生贄を火中に放り込むこともあった。

現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、健康で見た目も高潔な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に世話された。神事によっては貴人や若い男女さらには純真無垢な小児が生贄にされることもあった。

一の葦
かつてテスカトリポカ神に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神が戻って来る『一の葦』の年(1519年にあたる)が迫っていた。アステカでは帰還したケツァルコアトルが古い世界を破壊して新しい世界を建設すると信じられていた。アステカ人が漠然と将来に不安を感じ始めていたころ、テノチティトランの上空に突然大きな火玉が現れ神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。

さらに『一の葦』の年の2年前(1517年)から東方の沿岸に白い異邦人が現れるようになり、その情報が逐次アステカ国王モクテスマ2世に伝わった。人々は白い異邦人が帰還したケツァルコアトル一行ではないかと噂しあったが、実はスペインキューバ総督府からメキシコ周辺の情報収集を命じられたスペイン人の一団であった。彼らはキューバに戻ってアステカの繁栄をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。

ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは大変な野心家で、1519年2月、総督の命令を無視してアステカ征服を目指して16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島に上陸した。コルテスはタバスコ地方の勢力との戦いに勝利すると戦利品として贈られた女奴隷の中からマリンチェという没落貴族の娘を選んで現地妻にした。通訳としてまた案内人として有能であったマリンチェはコルテスに献身的に仕えた。

さらに軍を進めたコルテスは有力なトラスカラ王国と戦いこれを屈服させた。トラスカラは長年アステカの圧政に苦しんでいたためこれを機にコルテスと同盟を結んだ。コルテスは数万の同盟軍を得て自信を深めトラスカラ残留部隊を除いた400人の部下と千人のトラスカラ軍を率いてアステカ深部へと進軍していった。

『一の葦』の年に現れたコルテスはケツァルコアトル神の化身と信じられテノチティトランへと順調に進軍し、1519年11月18日、モクテスマ2世に迎えられてテノチティトランに入城した。テノチティトランの名所を案内されその豊かさと繁栄振りに目を見張ったコルテスは、入城6日目にしてモクテスマ2世を捕らえると宮殿に幽閉して人々に人身御供の禁止を布告した。

滅亡
ベラスケス総督がベラクルスにコルテス追討軍を派遣したため、コルテスは僅かの守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。引き返したコルテスは同盟軍と協力してナルバエスに率いられた1000人の追討軍に勝利すると、投降者を編入して本格的なアステカ征服に専念した。

コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう。1520年6月30日アステカ人が諸悪の根源であるコルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。アステカはクィトラワク新国王を擁立して国の再建を目指し、コルテス軍捕虜を生贄にして気勢を上げた。

トラスカラで軍を立て直し用意周到に抵抗勢力を駆逐してテテスコ湖々畔に立ったコルテスは、1521年4月28日、13隻の帆船を築いてテテスコ湖に浮かべ数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した。1521年8月13日、コルテスは総攻撃をしかけて病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモック国王を捕らえアステカを滅ぼした。

その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。アステカ人の多くが奴隷にされスペインのメキシコ経営に酷使され倒れ、あるいは旧大陸から伝わった疫病に感染し、そのため地域の人口が激減した。

2009年04月05日

俳諧(はいかい)

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多く行われるようになり、明治時代に成立した俳句の源流となる。時に作者個人の創作たる発句を完全に独立させた近代文芸の俳句と同一視される。専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。 江戸期においては専業のいわゆる「業俳」が俳諧師と呼ばれていた。 本業があって趣味として俳諧を楽しむ人は「遊俳」と呼ばれ、遊俳は俳諧師とは呼ばれない。

歴史 [編集]
「俳諧」の元の意味は「滑稽」「戯れ」といった意味がある。『古今和歌集』に集められた滑稽な和歌は「誹諧歌」と呼ばれていた。

室町時代に、和歌の連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が、「俳諧連歌」、もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれ、栄えた。連歌の傍流といった位置づけであったが、山崎宗鑑らによって大いに栄えた。

俳諧連歌は江戸時代に入ると松永貞徳によって大成された。貞徳の一門による俳諧連歌は「貞門派」と呼ばれ一時代を築き、堅苦しい正統の連歌をしのぐ程の人気を誇った。しかしやがて貞徳らによるそれまでの「古風」に対して新しい表現「新風」が現れて貞門の地位を奪った。新風は「談林派」と呼ばれ、連歌師でもあった西山宗因を筆頭に、浮世草子を成立させた井原西鶴らが参画していた。談林派が十年ほどの短い最盛期を終えると、その後には松尾芭蕉があらわれ、「蕉風」と呼ばれる作風を示した。貞門派の「詞付」、談林派の「心付」に対して、蕉風は「匂付」と評された。

芭蕉没後しばらくは付け句の技巧を競う川柳を中心に雑俳が栄えたが、中興の祖である与謝蕪村らによってふたたび活気を取り戻した。

江戸時代末期には小林一茶の活躍が見られた。

江戸時代を通じて俳諧は連句形式が主流であり、発句のみを鑑賞することがあっても変わらなかった。しかし明治時代になると、正岡子規によって、従来の座の文芸たる俳諧連歌から発句を独立させた個人の文芸として、近代の俳句が確立された。

俳句の成立以降は、伝統的な座の文芸たる連歌の俳諧を近代文芸として行うとき、俳句とは区別するためこれを連句と呼ぶようになった。

形式 [編集]
もともとは連歌として詠まれたものだが、発句のみを独立した表現とすることもある。のちに連句のための発句を「立句」、単独のものを「地発句」と区別して呼ぶようになった。

また、連句としての前後のつながりを含めて作品であること、複数人で続けて句を詠みあうという表現の性格から作り手と受け手が同一空間にいることといった特色があるため、本来連歌としての俳諧は、近代以降の俳句と評価の視点が異なる。

久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

2009年03月21日

宗谷本線系統の改造車

キハ400形気動車を使用する宗谷本線系統の急行列車に組成するため、キハ182形を1997年に改造した。老朽化したお座敷車キロ29形・キロ59形の取替え用としてキハ400形3両をお座敷車に充当するための補充措置である。
ジャンパ連結器をキハ400系の仕様に変更したほか、電源装置を搭載するため客室の一部を機器室に転用し、定員は16人減少して52人となった。外部塗色はキハ400系と同一の濃淡グレー+赤帯とされた。車両番号の変更はない。
急行「宗谷」「サロベツ」「利尻」の指定席車として使用されたが、2000年3月の宗谷本線高速化完成による急行の特急格上げで用途がなくなり、2002年度に全車が廃車された。
※キハ182-36 - 38
とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

特急「サロベツ」・「利尻」用改造
2000年3月の高速化完成により、宗谷本線に4往復の特急列車が新設された。2往復の「スーパー宗谷」には新製のキハ261系を使用し、「サロベツ」「利尻」の各1往復に本系列を使用することとなった。
当該列車に使用する編成はキハ261系に準じた内装に改装された。座席は新品に交換され、座席の配色は稚内方から1両ごとに赤・緑・青で統一される。車内の各側窓下に電源コンセントを増設している。指定席として使用する キハ183-1501 - 1503 と キハ182-501 - 503 は座席間隔を従来の 940 mm から 1,040 mm に拡大した。
稚内方先頭車となる キハ183-1501 - 1503 では、デッキ側の座席3列分を撤去してトイレ・洗面所と清涼飲料水の自動販売機を設置した。定員は キハ183-1501 - 1503 で68人から48人に、 キハ182-501 - 503 では68人から60人に減少している。
後年、デッキと客室間の自動ドアのタッチセンサー化・貫通扉のオートクローザー機構設置が行われ、指定席用の6両では暖房装置の強化が行なわれている。
※キハ183-1501 - 1504・1555・1556 キハ182-501 - 503

2009年03月06日

戦列艦 (ship of the line)

戦列艦 (ship of the line) は17世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ諸国で使用された軍艦の一種。単縦陣の戦列 (line of battle) を作ってして砲撃戦を行うことを主目的としていたのでこの名がある。

戦列艦の定義は運用組織や時代によって変化するが、概ね木造で非装甲の大砲を50門以上搭載した3本マストの帆船のことであった。時代の経過とともに次第に大型化し、搭載門数が増えていったが戦列艦の基本的な配置は1850年ごろまで変化しなかった。その後蒸気推進の戦列艦が登場するが、10年程度で本格的な装甲艦が登場し、戦列艦に替わって海戦の主役になった。

上記のように戦列艦は多数の砲を搭載していたが、その数は50門から約140門まで大きな幅があり、規模も多種多様であった。そのため戦列艦は大きさによって何種類かに分類することができ、砲門数を用いて「120門艦」のように呼ぶ。例えば、歴史的に最も多用された戦列艦は74門艦であった。しかし、門数が同じであっても時代や運用国によって設計が大きく異なるため注意が必要である。一般的傾向として多数の艦艇を本国から離れた海域で運用するイギリス海軍では艦の大きさを切り詰め、数的に劣っている大陸国は大型の艦を好む傾向があった。またオランダ海軍は浅海が主戦場となるため、比較的小型の艦を使わざるをえなかった。

門数の他の分類としては砲列甲板の数や、イギリス海軍による等級がある。戦列艦は通常2層か3層の砲列を備えていたが、2層艦と3層艦の性質は大きく異なる。概ね80門前後が両者の境界線であった。また等級制度は門数によって戦列艦やより小型のフリゲートを6等級に分類する制度だが、後に4等艦がほとんど使用されなくなるなど実際的な分類とはいえなかった。

なお18世紀中盤に戦列艦の下限は60門だと考えられるようになり、以後50門艦は通常フリゲートに分類されたが、それ以後も戦列艦として扱われることがある。またイギリス海軍では1880年代ごろまでに建造された黎明期の戦艦も戦列艦に分類している。本稿ではこれらの艦については詳述しない。

歴史
戦列艦の発達史の中で重要な事柄として寸法規定がある。これは18世紀前半のイギリス海軍が実施していた艦の大きさを一元的に決定する制度で、結果的にイギリス海軍の技術的発展を大きく阻害することになった。反対に寸法規定廃止後は第2次百年戦争の影響もあって設計の革新が急速に進み、ナポレオン戦争後も1860年代まで緩やかな発展が続いた。
サクソニ ルンバー ソブー ミルク てやり ライフ レビス 待ちぼう マジシャン 青春 オーバ フェー スクリュー ディトム チグリ ファーレ レギュレ レゾナ クホス フェムド オタク サテュロス マキシ るもい ステッチ チヂミ ボート トップ ジャッ 大同情報 ジュラル ストロ カバオ ルビー ブロー キング イラマチオ 月夜の オブシデ ジップ ギモーブ マッチ 幸運快適 つる菜 ラナイ メコン リイシュー スラッシ ローテー だて

起源
戦列艦の元となったのはガレオン船である。ガレオンは戦列艦に比べて少数、小口径の砲を搭載し、軍用にも商用にも使用されていた。16世紀半ばにイギリスのジェイムズ・ベイカーが砲門の構造を案出すると帆船に大口径砲を搭載出来るようになり、次第に砲撃戦に特化した構造の戦列艦へと進化していった。

18世紀前半
18世紀初頭、軍艦の設計はすべて各造船所の技師に任されていた。設計が統一されていないと艦の性能も安定せず、なにより管理上の不都合が多かったのである。当時最大の海軍国であったイギリスにとって経費の削減は切実な問題であり、このため1706年に寸法規定を導入して戦列艦の大きさを50門から100門の6種類に統一しようと試みた。しかしこの制度は設計者の権限を大きく制限したため、イギリスの設計技術は重度の停滞期に陥ることとなった。この制度は何度か改定されながらオーストリア継承戦争後の1750年ごろまでイギリス海軍を縛ることになる。

一方大陸諸国では戦列艦の大型化が進む。これは艦体の大型化とともに砲の大口径化も意味していた。結果としてイギリスとフランス、スペインの同門数の艦はかなり大きさの差ができ、ジェンキンスの耳戦争で実際に交戦すると個艦の戦力の差は明らかとなった。イギリス海軍は寸法規定に何度か改定を加え、結局撤廃することになった。

寸法規定期の重要な出来事としては74門艦の出現がある。1740年ごろフランスで建造され始めた74門艦は火力、防御、帆走性能のバランスの取れたコストパフォーマンスの高い艦種だと考えられるようになった。74門艦はその後約80年もの間海戦の主役であった。

なお戦列艦の大型化傾向に伴い、寸法規定廃止後は50門艦を戦列艦だと見なさなくなった。

2009年02月14日

刃鳴散らす

人骨踏みしめ怨念喰らい
バポス ランパン スモーク ワード ねじめ ブルー ケチャ ゴム編み じゃっこ リッチ マリンスノ ラーマー パブコメ フェテ タリア 森の小人 ザイール パパ シエナ ユニット アセビ ムスク フォルタ メンテ ミサンガ ディス ジーンズ ニュート ブラッシ ブロック タイチュー ブルネット フラワー チュート ダブル クーチュ エアリアル スワジ 地平線 セミオート パテント 黒いカバン リンパ バトン 人魚姫 ハンドガン ラスプーチ スイン クラウト ターテー

這いずり進み血を啜る

悩ましきかな我が武道

21世紀初頭

前大戦以来、南北を他国に占領され続けている日本帝国において、首都ではなく最悪の無法都市となってしまった東京。 世界はテロリズムの大流行の渦であるにも関わらず、東京には銃声は響かない。爆音が轟くこともない。

聴こえるものは剣撃の音。無数の刃鳴。

これは、そんな荒廃の都市で数多綴られた、小さな戦記録の一つ。 武田赤音と、彼に斬られた想い人の仇討を遂げんとする伊烏義阿との、相克の物語である。
武田赤音(たけだ あかね)(声優:鈴美巴)
本作の主人公。古流剣術・刈流兵法の使い手にして、東京経済を支配する瀧川商事の食客。
小柄に赤い派手な女物の着物を身に纏った、少年のような容姿をしているが、宿敵である伊烏義阿との決着に固執し、そのために邪魔となるものは悉く排除しようとするなど、性格は残忍且つ冷酷。既に成人であると思われるが、言動は子供じみているともとれる自己中心的なものが多い。
瀧川商事の衛士達からは、弓の愛人と認識されており、畏怖と敬遠の混じった眼差しを向けられているものの、本人は周囲に対しては殆どと言っていい程無関心である。
数年前に起こった災害で行方不明になったとされており、戸籍上は死亡扱いになっている。
鹿野流の門下だった時は、礼儀正しい好青年だったが、伊烏との後継試合の後、道場の娘である三十鈴が自分の木刀に細工を仕掛けていた事を知り激怒、衝動的に彼女を手にかけてしまう。伊烏との因縁、そして自身の性格が現在のようなものに変貌したのはこれが発端となっている。
伊烏との決戦に備え、自分の周囲の人物を一掃するため、瀧川商事を裏切り、矛止の会に報復攻撃をするよう仕向けた。後に魔剣「鍔目返し」を会得する。渡を一蹴した後、因縁の戦いに終止符を打つべく伊烏との戦いに挑み、彼に勝利するが、自分の目的を達した事で最期は十文字に割腹、自刃して果てる。
伊烏義阿(いがらす よしあ)(声優:オイリーはな)
非合法武装集団「矛止の会」の傭兵。赤音と同じく刈流兵法の使い手であり、魔剣「昼の月」の会得者。
かつては、赤音とは同門で、彼の兄弟子だったが、赤音に想い人を殺された事で、彼を執拗に追いかけ復讐を遂げようとしている。
真面目な性格だが、少々根暗な所があり、一輪にも指摘されている。
矛止の会の中枢が襲撃された後、赤音が残したIDカードを使い、報復として瀧川商事を襲撃。「赤音の弱点は病院に入院している彼の姉」と弓から聞かされる。弓を殺すつもりはなかったものの、弓が赤音を諦めきれず、彼に手を出さないで欲しいと懇願したため、心ならずも彼女を殺害した。その後、赤音の姉・笙を拉致し、赤音と対峙。彼の眼前で笙を殺めたが、笙こそが記憶を失った伊烏の想い人・三十鈴であり、皮肉にも自身の手によって彼女を手にかけてしまった。伊烏自身はその事実に気づかぬまま勝負を挑み、渾身の一撃を見舞うも、赤音の「鍔目返し」に敗れ、赤音の本心を知らされることもないまま息絶える。

瀧川商事
府外から府内に運ばれてくる物資の搬入・流通により富を得ている総合商社で、東京の経済を支配する有力勢力。

瀧川弓(たきがわ ゆみ)(声優:守田羽糸)
瀧川商事の社長を務める男装の麗人。立場上は「男」として振舞っているが、唯一、自分に「女」を求めてきた赤音を溺愛している。一人称は「僕」。
赤音の前では甘えた表情を見せるが、反面、社内の反社長派牽制のためならば、冷酷な手段や態度も辞さない。
子供の頃に兄を亡くしており、それ以降、跡継ぎとして男の立ち居振る舞いをするよう周囲から教育されてきた。それまで女として育てられていたため、弓自身はその事に苦悩しており、前述の理由から赤音に異常なまでの愛情を向けている。赤音が独断で矛止めの会の中枢を攻撃した事による報復で、瀧川商事本社が襲撃され、赤音に助けを乞う。
八坂竜騎(やさか りゅうき)(声優:飯島筆)
瀧川弓の護衛を務める屈強の武人。瀧川家には先々代の当主から仕えており、現在の当主である弓にも忠実に従っている。
弓を護衛する事だけを貫こうとしており、赤音の事は嫌悪している。
東京武界の最高位、剣匠二十四傑が一。
瀧川商事本社襲撃時に伊烏と対峙するが、敗れて右腕を失ってしまう。その後、赤音が弓を裏切った事を悟り、隻腕となった身で彼に戦いを挑む。赤音を追い詰めるものの、最期は反撃され、倒された。
「戒厳の野望」では、味方として使用出来る場合がある。登場人物中では戒厳に次いで高い攻撃力を持ち、また、謀略の際に彼を使用すると、敵勢力のHPを減らせる事がある。
桂葉恭子(かつらば きょうこ)(声優:歌織)
瀧川商事の第二管理局長を務める幹部社員。社内の派閥では反社長派に属し、巧妙に立ち回って勢力を伸長させている。
弓の私兵とも知らず、赤音を愛人として囲う。矛止の会に襲撃され、赤音に助けられるものの、自分が襲撃された事が、反社長派に属する桂葉を封じるために敢えて矛止の会に襲撃させた弓の策略であった事を知る。悔しさと憤りを隠したまま、追撃に向かうが、伊烏義阿によって引き連れていた衛士共々殺害されてしまう。
「戒厳の野望」では味方として登用出来る場合がある。彼女に謀略を行わせた場合、人材を見つけ出せる事がある。

矛止の会(ほこどめのかい)
東京独立を訴える過激派非合法武装集団。瀧川商事とは敵対関係にある。

渡四郎兵(わたり しろべえ)(声優:杉崎和哉)
矛止の会の会士で、赤音への復讐のため会に加わった伊烏と共闘する。一度見ただけで運動・剣技の構造を理解できる「運動模倣」の持ち主。
一見ぼんやりとした糸目男だが、実は「東京府庁」のスパイである。しかし、器が小さい分、底意を露呈しやすく芝居は得意とは言えない。その為、伊烏を含め会の人間には感づかれている。
また、普段の余裕の表情は自尊心の強さの表れであり、少々の事で揺さぶられると、激情家な本性が顕わになってしまう。度々赤音にも接触し、伊烏との決戦前にも姿を現すが、雑魚呼ばわりされて激昂。伊烏から模倣した「昼の月」で赤音に襲い掛かるが、技の本質を理解していなかった事もあり、瞬殺されてしまう。
日浦織枝(ひうら おりえ)
矛止の会の会士。伊烏と矛止の会との間を取り持っていた。
赤音が率いる瀧川商事の衛士達によってアジトが強襲された事で、赤音に戦いを挑むも打ち負かされてしまう。その際に性別が女性である事が知られ、言葉巧みに赤音に陵辱される。その後、伊烏についての情報を吐き、自ら赤音に介錯を頼んで死亡。
「戒厳の野望」では、場合によっては味方にする事も可能で、謀略に彼女を用いると、敵勢力のHPを知る事が出来る場合がある。

その他の人々
一輪(いつりん)(声優:須本綾奈)
本名を藤原一輪光秋という刀鍛冶師で、赤音・伊烏とも旧知の女性。あくまで傍観者に徹しており、赤音と義阿の戦いを静かに憂いを秘めた眼で見守っている。
『戒厳の野望』では刀鍛冶として登場。彼女の打った刀によって自勢力のHPが増減する。
武田笙(たけだ しょう)(声優:木村あやか)
武田赤音の姉。数年前の事件により記憶を失っている他、その時に負傷した目を保護するために遮光器を付けており、東京の病院に入院している。
その正体は、かつて赤音と伊鳥が入門していた剣道の名門・鹿野流の後継娘である鹿野三十鈴。伊烏とは両思い間柄でもある。
道場の後継を決めるための赤音と伊鳥の試合において、伊鳥のことを思うばかりに赤音の刀に細工し折れるようにしていた。そのことが赤音にバレ、切られてしまうが即死を免れ、その直後に起きた火事のどさくさで赤音に連れさらわれ医者に運び込まれた事により九死に一生を得る。
しかし、その際に記憶喪失や失明同然と言える程の障害を持ってしまい、事件以降、切った本人である赤音が「武田笙」という偽名と姉という偽りの立場を教えて面倒を見続けている。ちなみに赤音には姉がいるが、名前は「生(しょう)」で漢字が違う。
尚、『戒厳の野望』では意外な形で参戦する事となる。
石馬戒厳(いしま かいげん)(声優:北都南)
軍人にして文筆家。陸軍少将。退役後、日米安保条約に反対し1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて決起演説を行う。同25日にはクーデターに賛同した陸軍部隊により首都機能を掌握。以後軍事政権を樹立し内閣総理大臣に就任。国益ではなく精神面での日本の保護政策をとり、国内外から徹底的な反発を浴びる。
1973年6月、名古屋遷都後内閣総辞職。自身を(おそらく)終身東京府知事に任命した。「城壁」をもって東京を封鎖。東京府からの外国人追放、銃器の単純所持禁止、など物理的・精神的に徹底した海外思想排斥政策を施し、「日本人の心」を取り戻そうとした。
武士道を全国民に敷衍し人々を侍にしようとした石馬戒厳の思想は後世に強い影響を及ぼした。日本古来の文化思想を尊ぶイデオロギーとして「イシマ主義」が生まれ、この主義者は「イシマ志士」と名乗り呼ばれた。石馬の精神的な後継者を名乗り、多くの武装組織が活動している。
なお、現東京府知事は戒厳の姉の息子で、戒厳の甥にあたる。
以下パラレルワールドに当たる『戒厳の野望』における設定を記す。本名は「石馬雪緒」、号して戒厳と名乗る。82歳。公式には30年前に死んだ事になっているが、大義に身を捧げ、大義と共にあるため、大義を成すまで不死の身体となった。軍服をまとった少女の姿をした魔人でもある。自らを「不死(ブシ)」と称し、不死の力を与えた死人を部下として率いて東京独立を目指す。
『戒厳の野望』では戒厳帝国を率いており、攻撃力は全キャラクターの中で最も高い。
蕎麦屋の娘
赤音・伊烏が常連の蕎麦屋で働く少女。かつて自分を救ってくれた伊烏には、恩人と称して感謝の念を抱いているが、赤音に対しては、彼の自己中心的とも言える性格に感づいている節があり、少々ぞんざいな態度で接している。
『戒厳の野望』では、プレイヤーの選んだ勢力の人員として登用出来る場合があり、謀略の際に彼女を選択すると敵勢力のHPを減らせる場合がある。

2009年01月28日

ケ号作戦(ケごうさくせん)

ケ号作戦(ケごうさくせん)は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)2月1日から7日にかけて行われた、日本軍のガダルカナル島撤退作戦。作戦名の由来は捲土重来による。作戦は3回に分けて行われ、沈没艦は駆逐艦1隻のみで日本軍の撤退は成功した。撤退により救出された日本軍は1万名余りだったが、ラバウルやブーゲンビル島の兵站施設に収容された後、栄養失調からの回復治療中に過食などにより命を落とすものも多かった。
ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ

1942年(昭和17年)8月7日の連合軍上陸から5ヶ月を経過し2度の総攻撃を行ったもののヘンダーソン飛行場基地の奪回は成らず、糧秣弾薬の補給が輸送船の沈没や駆逐艦の大量消耗により継続できなくなり、日本軍は同年12月31日の異例の御前会議でガダルカナル島からの撤退を決めた。撤退は翌1943年(昭和18年)2月に行われることとなったが、これを隠すため航空攻撃や物資輸送は続けられた。そのため、米軍は日本軍の撤退作戦完了後も、撤退の事実を知らず逆にガダルカナル島への新たな日本軍増強のための駆逐艦輸送と考えていた。

またこの撤退に際しての企画は、以下のようなものであった。

ガダルカナル島西へ兵員を移動し、防御陣地を築いて撤退準備をすること。
ガダルカナル島西方にあるラッセル諸島を占領し、これを中継基地として使用すること。
戦病者を優先し、第二師団・第三十八師団と撤退していくこと。
同時に陽動の為に陸軍は陽動隊を上陸させること。
残存兵は潜水艦等により撤退させること。
こうした一連の動きにより、アメリカ軍に対し再び日本軍によるガ島総攻撃があると思わせるのが 日本軍の意図であった。

作戦準備
増援輸送
1942年(昭和17年)12月11日のドラム缶輸送の失敗から駆逐艦による輸送を中止していた。しかし、撤退までの軍の消耗を防ぎ、体力を回復させるために翌年1月2日よりドラム缶輸送を再開した。また1月14日から3回に渡り増援部隊を揚陸させた。さらに12月9日から中止していた潜水艦による輸送も12月26日より再開し、ほぼ毎晩行われた。

同時にコロンバンガラ、ムンダ、レカタ、パラレ、ショートランド、ブカの各地に増援部隊を輸送、ムンダ等の各地の飛行場整備を急いだ。

ラッセル諸島占領
もし駆逐艦による撤退が不成功に終わった場合には大発によってラッセル諸島まで移動し、そこから駆逐艦で撤退することが考えられた。また逆にアメリカ軍の占領を防ぎ、増援に見せかける意図もあった。そこで1月28日に時津風、黒潮、白雪の3隻を警戒隊、また浦風、浜風、江風の3隻を輸送隊として陸軍約300名、高射機銃小隊28名をラッセル諸島へ輸送した。途中航空機の攻撃を受けたが零戦の直援もあり、艦艇に大きな被害はなく輸送は成功した。

航空支援
基地航空隊は1月15日からガダルカナル島への夜間攻撃を強化を企画、天候が回復した19日より撤収作戦終了までほぼ連夜に渡りガダルカナル島飛行場の爆撃を行った。またポートモレスビーとラビへの夜間爆撃も同時に実施した。1月25日からは航空機撃滅のために零戦54機などをガダルカナル島上空へ派遣したが敵の反撃が少なく、期待した成果は上がらなかった。

陽動作戦
1月15日に利根、伊8、802空、東通、4通、6通をもって東方牽制隊を編成、利根は1月25日よりカントン島西に進出し偽電を発信、同様の作戦を2月3日からも行った。伊8潜は1月23日、1月31日にカントン島を夜間砲撃した。また802空はカントン島方面で哨戒任務を行った。通信部隊は偽電を発信したと思われるが記録が無く不明。これらにより日本軍が攻勢をかけると思わせるような工作を行った。成果は不明。

艦艇支援
前進部隊は1月31日にトラックを出港、ガダルカナル島の北方約700海里、グリニッチ島の東方海域に進出し敵艦隊の出現に備えた。前進部隊の兵力は以下の通り。

本隊:愛宕、高雄、妙高、羽黒、金剛、榛名、神通、朝雲、五月雨、陽炎、大波、時雨、敷波
航空部隊:隼鷹、瑞鳳、阿賀野、長良、初雪、嵐
補給部隊:日本丸、健洋丸、涼風
また支援隊(熊野、鳥海、川内)がカビエンに警戒停泊していたが、両隊とも戦闘参加の機会は無く終わった。

撤退
第一次
最初の撤収は2月1日に行われた。部隊は駆逐艦20隻で、1日朝、ショートランドを出発した。途中アメリカ軍機の攻撃で巻波が航行不能となり、文月の曳航で引き返した。同夜、ガダルカナル島に到着し海軍250名、陸軍5164名を収容、2日午前、ブーゲンビル島エレベンタに帰還した。収容時に巻雲が触雷により航行不能、夕雲の魚雷で処分された。また魚雷艇による攻撃もあったが砲撃により撃退した。参加艦艇は以下の通り。

エスペランス隊
警戒隊:文月、白雪、江風、親潮、舞風、巻波
輸送隊
第10駆逐隊:風雲、巻雲、夕雲、秋雲(巻波脱落後、巻雲、夕雲は警戒隊へ編入)
第17駆逐隊:浦風、磯風、浜風、谷風
カミンボ隊
警戒隊:皐月、長月
輸送隊
第16駆逐隊:時津風、雪風
第8駆逐隊:大潮、荒潮
アメリカ軍は日本海軍駆逐艦20隻に対しF4F戦闘機17機、SBD17機、TBF7機を発進させたが1隻(巻波)を航行不能とさせるに留まった。また改造駆逐艦が機雷300個を敷設、この機雷に巻雲が触雷した。また魚雷艇11隻を出勤させたが2隻が砲撃により沈没、1隻が爆撃により沈没、他に座礁で1隻を喪失し日本軍の行動を阻止できなかった。

第二次
2回目は2月4日に行われた。朝雲、五月雨が参加し部隊は前回と同じく駆逐艦20隻。4日朝、ショートランドを出発。途中、空襲により舞風が航行不能となり、長月に曳航されてショートランドへ帰還した。また白雪が機関故障のため引き返した。ガダルカナル島に到着した部隊は、予定通りに収容を開始し、海軍519名、陸軍4458名を収容した。エスペランスでの収容作業には遅れが出たようで約300名の積み残しを残して5日午前エレベンタに帰還した。この第2次撤退で第17軍司令部がガダルカナル島を後にしている。対するアメリカ軍は魚雷艇を出撃させたが日本側水上偵察機7機の警戒、捜索により日本軍駆逐艦と接触が出来なかった。

エスペランス隊
警戒隊:黒潮、白雪、朝雲、五月雨、舞風、江風
輸送隊
第10駆逐隊:風雲、夕雲、秋雲
第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風
カミンボ隊
警戒隊:皐月、文月、長月
輸送隊
第16駆逐隊:時津風、雪風
第8駆逐隊:大潮、荒潮

第三次
最後の撤収は2月7日に行われた。部隊は駆逐艦18隻で7日朝ショートランドを出発した。途中空襲で磯風が被爆し引き返した。同夜、ガダルカナル島に到着しカミンボからしんがりとされた松田部隊を中心とする海軍25名、陸軍2224名を収容しエレベンタに帰還した。また駆逐艦での撤収が失敗した場合に備えてラッセル諸島に1月28日に進出していた海軍38名、陸軍352名を収容した。

第一連隊(カミンボからの収容及び警戒)
一番隊:黒潮、白雪
二番隊:朝雲、五月雨
三番隊(輸送隊):時津風、雪風、皐月、文月
第二連隊(ラッセル諸島からの収容及び警戒)
第10駆逐隊:風雲、夕雲、秋雲
第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風
第8駆逐隊:大潮、荒潮
第22駆逐隊:長月(艦長の証言ではカミンボで収容)

結果
3回の撤収により海軍832名、陸軍12,198名、合計1万名以上の兵員を収容した。それに対し損害は駆逐艦1隻沈没、3隻の損傷のみであった。日本側は駆逐艦の損失を参加艦艇の1/4、損傷1/4、収容人数は約半分を想定していたが予想以上の成果を収めた。

アメリカ軍は日本軍が増強をしていると判断していた。8日朝に舟艇が放棄されているのが発見され、初めて撤退の事実に気が付いた。